toggle
2018-04-08

大学の授業で唯一覚えていること

親には申し訳ないけれど、大学の授業で何を習ったか、覚えているのはたった2つだけなんです。

 

その1つは、入学したばかりの頃、一般教養で履修した哲学の一番最初の授業。

歩道橋を渡ってたどり着く、広いキャンパスの端の、鬱蒼と茂った木々が囲む暗くひんやりとした教室で、半袖のワイシャツのヨレっとしたおじいちゃん先生が待っていました。

 

「これから哲学を学ぶにあたって、一番最初に伝えたいことがある」と仰って、黒板に書かれたのは、

「どんなに高尚で深遠な哲学であっても、『生きること』につながるものでなければ意味をなさない

という言葉でした。

 

これが誰の言葉だかは、これまたサッパリ忘れてしまいましたが、これから哲学を学ぶ、若き未熟な生徒達に、予防線としてこれをまず伝えておくという先生の機転に感服しました。

 

哲学というと難しいですが、誰でも自分の経験や心象から、あるいは読んだ本などから、「人生とは○○だ」、「人間関係とは○○だ」・・・なんていう自分なりに真理だと思える観念を生んでしまうものです。

 

例えば、

友人に助けられた経験があれば、

「人の幸福とは真の友情を信じることにある」

と導くかもしれません。

 

でも、人に裏切られた経験があれば、

「自分以外の人間というものは信じてはいけないものである」

と結論づけるかもしれません。

 

 

 

このように、たとえ真理だと思えたものだとしても、どこかに自分を通したバイアスがかかってしまっている可能性があります。

それは世界的に有名な哲学者の言葉であっても。

 

なのに、その観念に翻弄されて、がんじがらめになり、悲しい人生を送ることになったり、最悪の場合は命を自ら絶つことだって起こってしまいます。

だから、哲学を学ぶ前に、哲学の運用方法、つまり、“「生」に繋がる方向にだけ使え”という重要な事を教えてくださったのではないでしょうか。

 

大学に入学する頃というのは、地方から出て来て一人暮らしを始めたり、今まで会わなかったような友人と出会ったり、恋をしたり、バイトを始めたり、サークルに所属したり、ものすごく変動の多い時期でもあります。

そして、感性が研ぎ澄まされ、生きるエネルギーや知的欲求が高まる割に、人生で一番ヒマなわけです。(自分の裁量で決められる自由度が高いという意味)

大きな変動要素と、繊細な感受性、無駄にあるエネルギー、そしてヒマな時間と揃った条件は、時に人をくだらない観念で縛り、底なしの悩みの沼にいざないます。

 

私も人生で一番ヒマな大学時代は、人生で一番本を読みましたが、

汚れていない(?)素直なこの時代は、ものすごく物事をダイレクトに受け止めてしまっていたので、見るもの触るものにいちいち影響を受けていました。

そして無駄にあれこれ深く考えこんでいましたね。

 

その後も、もう生きてられないと思うほど苦しみの多い人生ではありましたが、振り返れば、あの哲学の先生が教えてくださった言葉のお陰で、

自分では真理と思えても、自分を苦しめる考え方を持ってしまった時は、これは間違いであると気付いて軸を戻そうとすることができました。

 

大学の授業はサボらず真面目に出席していた割に、覚えていることはこのくらいですが、とても価値のある人生の授業だったと思っています。

 

ちなみに、有名な哲学者であっても、その人生は孤独だったり、精神に異常をきたしてしまったり、傍からは幸福に見えない方もいることを考えると、どんなに高尚で深遠な哲学をもっていたとしても、生につながらなければ・・・という先生の言葉の説得力を感じます。

 

やはり哲学は教養の1つとして受け止めて、自分の人生に都合よい所だけ運用するのがベストかもしれませんね。

 

 

タグ: , ,
関連記事