映画「ホドロフスキーのサイコマジック」の私的観方
待ちに待った作品 ホドロフスキー監督とは
今日、アップリンク渋谷で、コロナで延期になった映画がやっと公開されたので観に行ってきました。「ホドロフスキーのサイコマジック」。
この映画を作ったチリ出身のアレハンドロ・ホドロフスキーは、91才になる現在もバリバリ現役の映画監督です。
どうしてもカルトムービーにカテゴライズされてしまう彼の作品。
そりゃあ、血が吹き飛ぶし、スピリチュアルだし、役者とともに本当にドラッグやりながら映画撮るしで(40年以上前だけど)、カルトでくくった方が伝えやすいのかもしれません。
なのに、過去6作品くらい観た限りでは、なぜか彼にクレイジーさよりも深い優しさを感じてしまっていました。
でも、その理由が今日、新作を観て分かったんです。
ただ、今回の作品も、そのまま真に受けると面白くないかもしれないので、映画の観方は自由だと思いつつも、私なりのお勧めの観方をお伝えしたいと思います。
ネタバレのようでネタバレではない:サイコマジックはどういう作品か(うわべでは)
サイコマジックがどういう作品かというと、
監督のホドロフスキーが独自に編み出した心理療法で、苦しみを抱えた人々の心を癒やすセラピーの実践場面を紹介していくドキュメンタリーです。
虐待のトラウマ、家族間の苦しみ、吃音、愛する人の死など、あらゆる辛さを抱えた人が登場し、カメラに向かってインタビューに答えます。
その後、監督やセラピストが肌に触れたり、課題として与えられた行為を通して無意識の世界に繋がることで魂を癒やしていく様子が描かれています。
でも、ドキュメンタリー風のその映像をそのまま真に受けて観てしまうと、
男女が真っ裸になって戯れておかしくないか?!
集団で手をかざして新興宗教?
睾丸を握ってセラピーになるのか?!(笑)
そもそも診てもらってる人たちってサクラじゃないの?!演技でしょ??
みたいな印象を受けて、「胡散臭い映画観ちゃったな〜」って感じに帰ることになりかねません。
ホドロフスキーの集大成3部作
今回の作品の話の前に、ホドロフスキーの前の作品について触れておきます。
ホドロフスキーは、自身の自伝的な作品3部作を製作中です。
リアリティのダンス(2013)
エンドレス・ポエトリー(2016)
不可欠な旅(準備中)
ホドロフスキー自身は、幼い頃から父親との確執があり、抑圧されて育った過去があるそうです。
虐待を受けたり、親からの愛が捻じ曲げられて育った人の中には、そのトラウマを大人になっても消し去ることができない人が多くいます。30代になっても70代になっても。
ホドロフスキーも、もしかするとそんな1人だったのかもしれません。
そんな自分の父親の役や、自分の青年期を、この三部作では実の息子たちに演じさせているんです。
そして、作品の中では、実の息子であり、過去の自分自身である主人公に、現在のホドロフスキーが寄り添い、語りかけるシーンが何度も何度も出てきます。
それは、過去の自分を抱きしめ、癒やし、新しい人生に塗り替える作業のように感じます。
つまり、彼にとって、この三部作の映画を作ることそのものの行為が、自分自身の人生を肯定し、魂を浄化させるセラピーのように思えるんです。
そのために、90過ぎた爺さんが命がけで映画を作っていると。
そういう眼差しで観ると、映画の枠を超えて、1人の人間の人生プロジェクトを目の当たりにしているということが美しくて感動的なのです。
サイコマジックはドキュメンタリー風のファンタジー
新作サイコマジックの話に戻ります。
三部作完結編の前に作られた本作ですが、
このドキュメンタリー風の映像が、全裸でもみくちゃにされたり、大事な所を握られたりする、カルト集団のようなセラピーの実践風景で構成されているというのは先程書きました。
その合間合間で、ホドロフスキーの過去の作品の一部がいくつか流れます。
そして、その映画のシーンに似たような手法でセラピーが行われていくんです。
それこそが、この映画の核になるところなんじゃないかと思います。
おそらく、映像の中で行われている心理療法を真に受けると、体を黄金に塗りたくったり、巨大なかぼちゃをハンマーで潰したり、こんなの効果あるのか?と思ってしまいます。
でも、私が思うには、
映像の中で行われているセラピーは、「こうやったら治ったよ!」という事を伝える「ドキュメンタリー」なのではなくて、
「こ〜んなセラピーとしての映画を僕は何十年も作ってきたんだよ!」
「こ〜んな感じのセラピーを映画というアートで実践してきたんだよ!」
という単なる”メタファー”なのではないかと。
そう思ったら、なぜ今までカルトチックな作品も、深い愛と安らぎが感じられたか理解できました。
これまでの作品の答え合わせの映画とも言えます。
これには震えました。
ただ、これは単なる私の解釈ですし、サイコマジックをウソだとかカルトとか思ってるわけじゃないんです。
なんたって「愛するということ」で有名なあのエーリッヒ・フロムと共に研究したらしいですし、相談者に提案する療法は、変わってるように見えてとても本質的だと感覚的に思いますから。
ですけども、ホドロフスキーの作品は、ドキュメンタリーじゃなくてフィクションなら尚のこと、
寓意的で、メタファーというか、詩的でありファンタジーなんです。
母親がずっとオペラ調で話しているとか、
いつもお客さん全員がテーブルにつっぷしてるバーとか、
男の上に乗ったまま女が踊る、合体ダンサーとか、
とにかく変わった表現がいっぱい出てきます。
それをいちいち真に受けたり、現実的にあらすじを追ったりすると、
そんなの普通はやらないよね?とか、
どういう意味?
みたいに気持ちが冷めてしまうかも、、、ということは言えるかなと思います。
例えば、子どもがゾウの絵を書いた時、事実に忠実になると、
「ゾウならもっと鼻が長くないとおかしいのに」
という発想になりますが、
絵の奥にある気持ち、
例えば、ママに甘えたいんだな、みたいのを感じると、
「絵を見せることで甘えてる気持ちになってるんだなぁ」
という発想になると思うんです。
ホドロフスキーの映像表現は、そのくらい抽象度を上げて観ると、世の中のさまざまな気持ちにアクセスができて楽しめるかもしれません。
とはいえ、ショックな気持ちをガラスをガシャンと割るシーンで表現する、、、くらいなら分かりやすいんですけどね。
私もちゃんと理解できてるかといったら理解できてないと思います。
でも、歌詞のないクラシック曲や知らない国の言葉の歌に感動したりするように、その映像表現でしかアクセスできない感情があるからそう表現しているのだと思います。
なので、新作のサイコマジックを含め、ホドロフスキー監督の作品を観る時は、
意味が分からなくても、
〜みたいな
とか
〜が〜の気持ちだったら
・・・っていう置き換えなんだろうな〜くらいに、じわーーっと感じながら観るのがお勧めです!
こういう眼差しを持つのと持たないのでは、印象が違うかな〜と思って綴ってみました。
そして、サイコマジックは、ホドロフスキーの自伝的三部作の脚注的存在になることでしょう。
それを踏まえてもつまらないものはつまらない!って感じたらすみません(笑)
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