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2021-10-06

息子の独立

10月初旬、息子がとうとう家を出て一人暮らしを始めました。

私は8月に自宅を住居兼アトリエにすることになり、自宅に全荷物を移動。

でもダンボール箱を山積みにしたまま寝込み、入院。

家に戻ると、今度は息子が一人暮らしをすると言って、またダンボールを山積みにしたと思ったらあっという間に引っ越して行きました。

この2ヶ月で、大きな基盤の部分がバッタバッタと玉突き事故のように次々に動いていって、感慨に浸る暇もなく、息子との長い長い23年間の同居生活が終わってしまい、今の私は燃えカスのようになっています。

物理的に一人でいることは寂しくないはずですが、私の子育てが終わったのに達成感はなく、申し訳なさや虚しさ、不甲斐なさが押し寄せてくるのがやるせない感じです。

息子の父親とは生まれて半年で別居しているので、私と息子は今までずっと二人っきりの生活でした。

私は実の父親から受ける恐怖に耐えきれず、突然家から逃げ出したので、その後勝手に妊娠、出産してすぐ離婚しても親に頼ってはいけないと思っていました。

 

一人で育てられるように働かなくてはいけなかったのですが、

社会人の経験がほぼないまま子どもを生んでしまったので、働いて帰って子どもの世話をして、9時に寝かせたら3時までスキルアップのための勉強をするような生活でした。

そして、せっかく恐怖の家庭から逃げ出して自由になれるかと思ったのに、その羽根がもがれたような失望感や、

なぜでき婚から離婚後の子育てを、父親は養育費も払わず何もなかった事にできて自由になれるのに、母親の私だけが全部責任を負わなければいけないのかという悔しさもあり、イライラと悲しみが、当時の未熟な私を蝕んでいきました。

 

でも、一人で育てると決めたからには、養育費なんて必要ないくらい稼ぐ、そして絶対に息子に寂しい思いはさせない、いつでも抱きしめる、ご飯も作る、と無理をしていたように思います。

いつも身体が鉛のように重く、2歳〜中1くらいの間は繰り返し何度か心身の病気にもなり、仕事を辞めたり休んだりしました。

*

*

息子はとても心の優しい子でした。

小学4年のある日、テレビでシングルマザーの再現VTRをやっていたのですが、シングルが辛く寂しそうに見えたのか、

「母ちゃんもシングルマザーなんでしょ?でも俺が居るからダブルだよ」

なんて言って慰めてくれました。

 

優しかったけれど、だからこそ親に迷惑を掛けないように気を使う子に育ててしまったことが申し訳なくて、

せめてやりたい事は全部やらせるとか、毎日抱きしめるとか、小学1年からは在宅で仕事するとか、

出来ることを必死にしてたのですが、息子はいつも心が不安定で、中学生になっても膝の上に乗ってきたりと甘えたい欲求は収まりませんでした。

撫でたり抱きしめたり話を聴いたりするものの、これ以上安心させてあげるためにはどうすればいいんだろうとずっと悩んでいました。

思春期特有のやんちゃな事で問題を起こしたりもしましたが、

それでも、たくさん話し合ったり、笑い合ったり、抱きしめ合ったり、普段は仲良く過ごせている関係だったので、親子間は比較的いい方なんじゃないかと思っていたのです。

ところが、留学準備の専門学校に通っていた息子が、突然留学しないと言うので話し合いを始めた時、息子の今までの不満が爆発したのでした。

「自分は母ちゃんが居なくなったら自分も生きていけないっていう不安をいつも感じていたせいで、ずっと怯えてノビノビ生きられなかった」と。

「母ちゃんはいつも具合が悪そうで、なのに俺のために料理したり、無理に明るく振る舞ったりしてたから、自分のせいで母ちゃんが倒れてしまって1人になるんじゃないかっていう恐怖と罪悪感を植え付けられた」と。

そして、ノビノビと生きられずに青春時代を無駄にしたのは全て私のせいだと恨みを込めて責めてきたのです。

もうすぐ成人を迎えるという時期だったのに、子育てしてきた苦労が報われるどころか恨まれるなんて、愕然とし、何ともいえない情けなさと虚しさでショックを受けました。

 

でも、この鬱屈した気持ちを抑圧していたら、息子がきっと40になっても50になっても苦しむと思ったんです。

だから、辛いけど内側から発散させなくてはいけない、私が受け止めなくてはいけないと思い、心をえぐられるような責めの言葉を何時間も聴き続けました。

でも、その後、息子の気持ちは収まるどころか、それをきっかけに、何かにつけて、突然理不尽な事で怒鳴ったり、暴れるようになりました。

私は親のトラウマがあるので、全身がガタガタと震え、過呼吸になったりし、何とか動ける時は隙を見て、家から逃げたりしていました。

親に虐待された人が、大人になって子どもに虐待してしまうことはよく聞くけれど、

親の恐怖に怯えて暮らしてきたのに、今度は自分が苦労して育てた息子の恐怖にも怯えて暮らさないといけないなんて、

私の恐怖はどこまで続くんだろう、私が安心して暮らせる場所はないのかと絶望する日々が続きました。

必死に愛してきたのに、その愛情が全く届くどころか、長年の子育ては間違っていたのかという大きなショックと虚しさ、報われなさはやりきれないものがありました。

そして、幸せにしたかった息子を苦しめているのが悲しかったのです。

私に対する怒りの気持ちが爆発的するものの、優しい息子は母親を苦しめている自分が嫌でたまらなかったでしょうから。

本当に生きているのが辛く、消えてしまおうかと考えている期間が結構ありました。

 

道で赤ちゃんを見るたび、幼稚園児を見るたび、電車で小学生の男の子を見るたび、制服の中学生男子を見るたび、

あんな頃があったなぁと、息子と重ね、安心できる場所がなく、いつも不安だけど母親を悲しませたくなかった、そんな息子を思うと、いじらしさと切なさで、いつも涙が出ました。

それから数年間、何か問題があるたびに何度も話を聞き、サンドバッグのように不満を受け止める機会がありましたが、

それでも、何も無い時は暴れた時のことはなかったようにし、冗談を言いあったり、肩揉みをしてくれたりと仲良く過ごせたのかなと思います。

 

その内、息子は働きだし、自尊心を取り戻せたお陰もあったか、暴れることはなくなりましたが、私の取り組んできた23年間の母親業は間違っていたという失望感と虚しさは消えませんでした。

振り返って思うのは、

子どもにとって一番大事だったのは、母親が幸せで心から笑っていることでした。

人が相手に甘えられると感じられるのは、相手に余裕があって安定しているからです。

なのに、私はいつも無理をして、ギリギリな体調と精神状態だったのですから、いくら抱きしめられても安心できない母親だったのでしょう。

いくら好きな事をさせても、本人はノビノビ自分らしく生きてるとは思えなかったのかと思うと申し訳なくて泣けてきます。

もし父親がいれば、たとえ出張でほとんど帰らなくても、ワンオペでも、誰かがもう1人家庭にいるということは、子どもにとって生存レベルで安心感を与えるものなようです。1人親の場合は尚さら母親は無理せず安定していることだけを大事にした方がよかったのだと思います。

そして、無理していたのは中1までで、その後は私も生き方を根本から変えて、楽に穏やかに過ごすようになったので、自分としては息子の告白を受けて、ギリギリな感じで生きてたのは昔の話でしょ??という感覚でしたが、子どもは幼い頃に「母親像はコレ」「母親との関係はコレ」と印象を受けたら、いくら親が変わっても上書きしてくれないのだと気づかされました。

こんな感じで、後悔はたくさんありますが、

ただ、私はあまりにも長い1人プロジェクトに、勝手に成人や独立といった節目での達成感を感じたくて、勝手にガッカリしていたところもあるのではないかと気づきました。

子育てが終わったと思うとその結果を今回収したくなりますが、まだ終わっていなくて、息子が30代、40代になって、自分も子育てをしたり、老人になって死ぬまでの間に、私との暮らしが少しでもプラスに働くことがあるのだとしたら、今の時点で母親業が間違っていたということにはならないかもしれません。

 

そして、未熟な私を変化させ価値観を形成してくれた子育てをして、今は良かったと思っています。

体内で1センチくらいのお魚のような状態から大人になるまでのヒトの成長を長く観察し、苦しみ合い、愛し愛されるという経験をしたことで、人間というものが本当に尊く愛おしい存在と感じられるようになり、今周りにいる人達への気持ちの基盤となっています。

立ってられないくらい傷ついたり、憎まれたり、憎んだり、恐怖を感じても、それでも愛していると思えるくらいの深い愛を自分の中に見つけることができました。

 

20代の頃は、お金も時間も自由に自分のために使っている同世代が羨ましかったりもしましたが、

私は他人の喜びを経験できないけど、その人の苦しみも知らずに済んでいる、そして、私の苦しみを他人は経験せずに済んでいるけれど、私の喜びも私にしか経験できないということを、今となっては知っています。

だから今、私は昔よりも自分を信じ、愛することができています。

恐怖と抑圧からの自由を求めて飛び出した先で、皮肉にも負わなければ行けない責任のカセを自分でハメてしまいましたが、何とか抜けた先には、今の良い面・悪い面の両方を豊かさとして受け止めている、不完全でパーフェクトな自分がありました。

 

そして、1人でなんとかしなくちゃと走り始めたものの、振り返ればたくさんの友人たちが物心ともに助けてくれました。結局親にも一番支えてもらいました。

息子が健康で生きられて、母親から独立できるまでになったのも、皆さんのお陰です。

迷惑をかけましたが、たくさん心配と愛情をありがとうございました。

かなり前から自由に生きている私ですが、今回の息子の独立で、精神的にも本当に自由になった気がします。

今は大きな区切りを迎えて変な精神状態が続いていますが、これから第二の人生、よろしくお願いします!

 

 

 

 

 

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