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2019-03-18

「自分を大切にする」と「自分に甘くする」の違い

 

無理して頑張りすぎていた時期

体もココロも無理をして、寝ない、食べない、休まない、運動しない、体の悲鳴を無視する。それが当たり前になっていた20〜30代は、ダウンすることが多くありました。

そして、それが続くと本当に体が動かなくなり、半年働けないとか、2ヶ月寝込むなどの長期のダウンも何度かあったりしました。

 

そんなことを繰り返す内に、もう無理をするのは止めよう!自分をもっと大切にしよう!と決めたのが8年前くらいです。

 

仕事で、「◯日までにできますか?」と聞かれた時、徹夜することを前提に「できます」と言っていたのを、

18時までしか働かないを前提に返答するようになったり、

疲れてるな、体が鉛のように重いな、と思っても我慢して働いていたのを、ちゃんと休むようになったり。

 

とにかく意識的に、自分の体に無理させない、ちゃんと食べる、ちゃんと休む、嫌なことは断る、好きなことをする、自分を傷つけるような人とは離れる、、、特に自分の体が発するサインを無視しないようにしてきました。

 

でも、大切にすることと甘くすることの違いはなんだ?

最初の数年間は、慣れずに無理してしまうこともあったりしたのですが、さらに時が経つと、今度は何だか自分に甘くなってきたような気がしてきました。

 

例えば、1人で映画を観に行こうと予定していたのに、当日になって何となく疲れていると、

「体を大切にしなきゃ」と行くの止めたり、

おもしろそうだけど、週に3日も夜出かけたら疲れるだろうなぁと、イベントのお誘いも断ったり、

「体が欲しているんだから食べた方がいいんだ!」と食事をたくさん食べたり。

 

ちゃんと自分のココロと体が求めてることに耳を傾けて従うようになったけど、

自分を大切にしようとするのって、なんだか自分を甘やかしてるみたい。

でも無理したらまた体壊すし。。。

 

そんな風に、いったい「自分を大切にする」のと、「自分を甘やかす」のはどう違うんだ???

と、何だかよく分からなくなってきたのです。

 

でも、少し前に、これは前提が全く真逆なんだと気づいたのです。

 

自分を大切にするのは甘やかすと無理するの間だと思っていた

今まで持ってたイメージはこんな感じで、

ストレス過多になると「無理してる」事になる、逆に、楽すぎると自分を「甘やかしている」、

そして自分を「大切にする」っていうのはその真ん中なのだと思っていました。

 

でも、それって何かやろうとする度に「どっちにあたるのか??」って考えなくちゃいけないですし、甘いのか大切にしてるのかの境目がよく分からなくなるのですね。

 

根本の動機は信じてるか信じていないか

でもその内、設定する軸自体が違うのだということに気づきました。

その軸は、「自分を信じてるか、自分を信じていないか」です。

 

まず、昔なぜ自分に無理をさせていたかというと、自分はダメだと思っていたからです。

 

まだ未熟だから頑張って当たり前。

まだできないから徹夜して当たり前。

自分の将来このままじゃダメだから、もっと働いて当たり前。

 

ようするに、自分を信じていなかった。

このままでも大丈夫、ダメでも大丈夫と思えなかった。

 

一方で、その無理を止めて、自分を大切にしようとしたけれど、

きっと休まなかったら病気になるから休もう、

きっとすぐストレスに潰されちゃうから外出は控えよう、

きっと寝ないとダウンするからもっと寝ようと、

やってることは「自分をダメだと思って信じてあげない」という、無理していたころと同じ事だったんです。

 

「無理すること」と「甘くすること」は対極にあると思っていたけれど、

実は、「自分を信じていない」という動機から生まれることにおいては、同じだったんです。

 

 

 

「自分を大切にする」というのは自分を信じる前提から生まれる行動

昔、自分を酷使しすぎてしまった私は、自分を大切にする選択として、体も心も楽なような事を選ぶようにしていったのですが、

 

自分を過保護にしていないと、自分は病気になる、自分はダメになると思って、自分に内在する力や、自分の未来を信じていなかっただけでした。

 

自分の体が悲鳴を上げるほど疲れている時はもちろん休まなくてはいけないと思いますが、

例えば、出かける予定がある時に、何となく面倒くさい、もうちょっと寝ていたいな〜と感じたとして、

「面倒くさい事を自分にやらせるなんて、自分を大切にしていない、体が寝ていたいと言うんだから無理したら具合悪くなるかも、、、」と、そのまま休み続けるのか、

それとも、

「面倒くさいのは本心じゃなくて一時的なもの。少しくらい寝なくたって私の体は回復できる!大丈夫!」と、起き上がって、出かけた後の喜びを自分に味あわせてあげるか。

後者のように、

「自分は大丈夫と信じて行動させること」、

そして、一時の気持ちより、その先にある気持ちの方を尊重して、

「やりたかった事を自分にやらせてあげる事」

こそが本当に自分を大切にすることなんだと気づきました。

 

 

自分だけでなく、他人も信じること

無理することも甘くすることも、前提は自分を信じてない事だと気づいたのですが、そういう時は、おそらく自分だけでなく、他人も信じられていないのだと思います。

 

例えば、無理をしていた頃、

夜中でもすぐにメールを返信しなくちゃと思っていた頃は、当たり前過ぎて疑問にも思っていなかったのですが、

朝に返信しても大丈夫と思えなかったからそうしていたと思うのです。

期待にすぐ応えない自分じゃダメなんだと、自分を信じていないのもあったかもしれませんが、

「そんなの許してくれない」と、相手の事も信じていなかったのではないかと思うのです。

 

夜中に即レスを強いるような人ではない、

そんな事で相手を悪く思うような人ではない、

と、ちゃんと相手も信じることができれば、無理はしなかったかもしれません。

 

要するに、無理すること・甘くすることは、自分を信じていないだけでなく、他人を信じていないから、という事もありえるんじゃないかな??と思いました。

 

子育ての「過保護」「厳しさ」も「信じていない」が前提

子育てに置き換えても当てはまるかもしれません。

過保護にすることと、厳しくしすぎること。それは同じ「信じていない」が動機にあるのかもしれません。

 

親が何でも手を出してやってあげたり、すぐに先回りしてアドバイスしてしまったりっていう過保護っていうのは、子どもを大切にしてるからではなく、信じてあげてないからやってしまう事だと思うのです。

どうせまだできないだろう、どうせ教えなくちゃわからないだろう、どうせ失敗するから正しい道を親が教えてあげなければ、、、

そうやって信じてないから手や口を出してしまう。

 

昨日できなかったけど、今日はできるかもしれない、失敗するかもしれないけど、ウチの子だったら乗り越えられるはず。

そう信じてあげていたら過保護にはならないと思うのです。

 

そして、子どもに甘いのと対極にありそうな、子どもに異常に厳しくしてしまう事も、動機は信じていない事にあって、

ダメに決まってる、できないに決まってる、このままじゃ将来ろくな人間にならない。

そういう信じていないベースがあるからイライラして厳しくしてしまうケースもあると思います。

 

 

難しいけど少しずつ変われる

無理しすぎも、甘やかしすぎも、

結局自分や周りを信じてないからで、

不安を避けることが行動の選択基準になっていた。。。

 

気づいても同じことを繰り返しちゃったりもしますが、

私も少しずつ変わっていってる気がします。

人生長く生きると面白いですね。

 

 

 

 

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